— ラガード研究所-資料室-

石と賢治のミュージアム2

まず、通された部屋です。ここで宮沢賢治についての概説が始まります。

今回の旅で、宮沢賢治の作品と岩手県の風土とが、切っても切れない関係にある事を実感しました。作品は、とてもファンタジーで空想の作り話のようですが、アイデアは常に岩手県の風土にあったと思いました。

ですので、このブログでは主に岩手県の厳しい風土を重点的に書いていこうと思います。

宮沢賢治が生まれたのは、1896年(明治29年)8月27日- 1933年(昭和8年)9月21日)で、賢治が生まれる約2ヶ月前の6月15日に「三陸地震津波」が発生して岩手県に多くの災害をもたらした。また誕生から5日目の8月31日には秋田県東部を震源とする「陸羽地震」が発生し、秋田県及び岩手県西和賀郡・稗貫郡で大きな災害が生じた。(wiki)

また、この年は夏場太陽が全く出ない冷害も重なり農民は飢饉に陥っていた。このような厳しい環境の中、生まれます。

質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮するたびに家財道具などを売って当座の生活費に当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる。(wiki)


この石と賢治ミュージアムがある東北砕石工場跡地は、賢治が35歳のときわずか7ヶ月だけサラリーマンとして働いた場所です。(後に東京出張時体調を崩し闘病生活を余儀なくされる)
なぜ、ここで働いていたかというと冷害に加え、この土地は昔、酸性の土地で農作物があまり良く育たない土壌でした。そこでこの工場の社長が、土壌の研究をしていた賢治に白羽の矢を向けます。
そこで山を砕き石灰(アルカリ性)を取り出し、土壌に蒔く事で土を中和する作業を行います。
自分は、宮沢賢治は童話作家だと思っていたのですが、大学では農学部で地質調査研究を学んでいて、どちらかというと研究者に近い人のようです。

↑サラリーマン時代の名刺
生前出版された宮沢賢治の本は、自費出版の「注文の多い料理店」と詩集「春と修羅」のみ

この場所での仕事は、賢治の作品にある「グスコーブドリの伝記」そのものです。宮沢賢治はこの厳しい土地の農民たちを助ける事に必死だった事がよくわかります。

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